大阪市天王寺区・西区の
児童発達支援・生活介護「スバコ」

『我々は』


今日は利用者さんとの会話の中から気になった言葉がありました。

今日だけでなく、ずっと以前から気になっていたのですが。。

それは会話の端々で出てくる『我々は、、、』という表現です。

皆さん、ご高齢者と話されていて気になった事はないでしょうか?

『我々の時代は、、、』

『我々の体は、、、』

脳梗塞発症後、片麻痺の後遺症がある80歳代の男性との会話でした。

着替えの介護を行う前に少し麻痺側の手指をストレッチしました。

そこで利用者さんが話された事、

『我々の手は冬になるとよけいに固くなって辛いんや。』

内容も大きな問題を含んでいますが、私が気になった事は内容だけではなく、

この『我々は』という表現です。

自分のことを『我々は』と表すこと。

不自然に思うのは私だけでしょうか?

『わし』ではなく『我々』

なぜ、自分個人でなく集団の代表のような言い方をされるのでしょうか?

例えば、私が『我々ヘルパーは、、』とか『我々、理学療法士は、、』などと

始めて自分の考えを利用者さんや他スタッフに話すことはほとんど無いように思います。

しかし、ご高齢者と話しているとよく『我々は』と話されます。

特に、男性に多いような気がします。

集団意識の違いでしょうか?

確かに私たち20代30代の者にとって集団意識というものは薄れているように思います。

平等感の違いでしょうか?

私の父も自分の事をよく『我々は』と言っていたように思います。

個人の損得感からの判断に厳しかったように思います。

幼少時は自動販売機でジュースを買ってくれる時は一本を兄と父と私で分けて飲みました。

テレビも一台でした。

お風呂も一緒に入るか次々に入るよう急かされました。

 

 

数少ない物を皆で分ける。

1人で1人分を用意すること

10人で10人分を用意すること

結果的に与えられる量は同じですが、

過程は大きく違うと思います。

その過程に人と人とのやりとりがあり、

そのやりとりの中に様々な事を勉強するのだと思います。

その勉強の中に様々な感情が生まれて心が動く。

そいつが人生ってなもんでやんすか?

ということは人生ってやつは過程でやんすか?

 

 

しかし、今の時代はどうでしょうか?

少し暗いですね。。。

今日は大切な事を教えて頂きました。

『我々』の一員として明日も頑張ります。

 

 

We are the ONE!