ルールの発見。
自分とは何か?
皆さん、そんなことを考えたり、悩んだりしませんか?
私なんて毎日のことです・・・。
自分の姿や形について、運動療法を目的とした科学の世界では『身体図式』と表現されることがあります。
身体図式が意味する姿は自分のカラダが『空間』とうまく関係するための輪郭です。
例えば、こんな問題です。
跳び箱がうまく飛べない太郎くんの場合、
太郎くんはいつも跳び箱を飛ぶ行為では跳び箱の手前の右側の角で、右のふくらはぎ辺りをぶつけてしまうことが観察されます。
これだけではどんな機能が問題かは分かりませんが、例えば自分のカラダの輪郭がきちんと把握できていないことが推測されます。
(そのために検査目的的に設定した『遊び』を提供します。)
それは自分のカラダについて跳び箱という物がある空間に対してどう『うまく関係するか?』
という目的です。
しかしながら、
自分ってなんだろう?
と感じることは、自分のカラダと物(空間)の関係ばかりではないんですよね。
自分の心と物・人の関係も集まりに参加するためにはとっても大切な要素です。
心理学的な用語で『自分の持っている概念』を『心像』と呼びます。
身体図式が『自分のカラダの姿』であるのに対して、心像は『自分の心の姿』とも考えられます。
子どもや私たちにとって『わかる』ってどういう状態なのでしょうか?
また、
『分からない』とはどういう状態なのでしょうか?
子どもと私が同じ物や活動を目にしていても、
お互いの心の姿が同じように物や活動に対して関係できているとは限らないんですね。
それがお互いに『わかった』と思えていてもです。。。。
自然科学者のニュートンはリンゴが地面に落ちるという活動を見て、
『地球がリンゴを引っ張っているんだ』と とらえました。
これはニュートンの心(自分の持っている概念)がリンゴが落ちようと自ら動いているんじゃない・リンゴを動かしているのは地球だと働いたのですね。
今では『引力』が科学的に証明されて、社会常識になっていますが、ニュートンが生きた17世紀の時代では、他の科学者によりニュートンはオカルトな学者としてレッテルをはられてしまいます。
発達障がいの子どもの中に『俺ルール』をつくる・つくってしまうことがあります。
多動の子どもに多いと世間では思われがちですが、
認知的な機能面が原因だと私は考えます。
経験する物事についての『規則(ルール)』を自分の心で発見すること難しいのかもしれません。
それは今の自分の心の姿の『カタチ』を変えたり、心の姿の『数』を増やしたり、減らすことに挑んでいる状況なのかもしれません。
どうしましょうか?
もし、この子がニュートンだったなら。
この子の心の姿はあまりにも独特で、その数もとても少なかったり、山の天気のように変わってしまっているのかもしれない。
でも、そんな心の像でしか見つけられない真実の規則があるのかもしれないよ。
『変わり者』と呼ばれている そんな彼だけれど、
この子が求めているような世界に社会が変われば、
意外と良いものなのかもしれないな。
それって本当にシンプルで、
それって本当に快適な生活なのかもしれないなぁ。
そんな君の『心のカタチ』がこの『社会』がどんなものなのかと
教えてくれているような気がするよ。
だから、学びあいさ。
君も君を産んで育てるお父さん・お母さんも。
君と一緒するsubacoも。
I’m just a child of nature
I don’t need much to set me free
I’m just a child of nature
I’m one of nature’s children
Child Of Nature – The Beatles