大阪市天王寺区・西区の
児童発達支援・生活介護「スバコ」

藤田先生。


事務所をのぞいてみれば藤田先生がなにやらゴソゴソとされていました。

事務所の外から撮った写真。

それにしても目立つね、そのユニフォーム。

なぜ、ショッキングピンクを選んだのか。

こんなセラピストいませんよね。

こんな色で障がい者支援を熱く語られるとなんだか。。。

そのうえに名古屋弁。

熱いを通り越して暑苦しい。。。

そんなセラピストであり、ヘルパーの藤田先生。

実は私とは20歳の頃、大学のゼミで知り合いました。

大学といっても、医療や福祉関係ではなく、某東大阪のマンモス大学の経済学部。

一学部1,200人ほど詰め込まれている校舎で私たちは出会いました。

初めて話した時は20歳の時、ゼミの沖縄旅行で。

彼はホテルで飲んだくれになっていました。

ユニクロのボロボロのタンクトップにしわくちゃのハーフパンツ。

実に汚れていました。。。

異様なオーラを感じた事だけは覚えています。

その後、私はゼミの幹事長になり、彼は副幹事に。

ゼミ内では色んな事がありました。

授業の企画はもちろん、飲んだくれの教授の接待、男女問題(やっぱりお盛んな年頃で)、学園祭の漫才などなど。

今、思えばぬるーい青春でしたね。

大学生活の3年間、ヘルパー活動に明け暮れた私はPTの専門学校へ進学、

藤田先生は一般企業へ就職。

私は、朝はヘルパー、昼は専門学校、夜はヘルパー。

今思えば、いつ寝てたんだろう?

そんな中、藤田先生は色んなことに悩んでいました。

互いに大学を卒業してから一年経った夏の日。

私のヘルパー業務を見学に来てくれました。

行き先は琵琶湖(近江舞子)

その日がきっかけで彼はヘルパーの免許をとりました。

さらにスキルアップを目指して作業療法士の道へ。

藤田先生は夜間の専門学校へ進学しました。

朝から夕方までヘルパーをして、夜は学校へ。

お互い、苦しい4年間でした。

それでも、得たものは苦しみ以上でした。

そんな彼と思いは少し違えば、形も違いますが、

今こうして、彼と一緒にステーションを開設することが出来ました。

しかし、スタートしたものの苦労ばかり、

利用者も少なければ、ヘルパーも少ない。

それでも、私は本当に幸せ者です。

藤田先生、妻子にはどこまでも突き進んでいけるような勇気をもらっています。

最後に、

藤田先生、誕生日おめでとう!

祝、30歳!

出会い、歩き始めた20代。

どんな30代になるのでしょうか?

いこうぜ!どこまでも!