大阪市天王寺区・西区の
児童発達支援・生活介護「スバコ」

読む楽しさ。


文字をうまく読むことができない子どもたちがいます。

ママやパパの顔を見分けて呼ぶことができても、

文字の形を見分けて、文字通りに読み上げることが難しい子どもたちがいます。

 

そんな子どもたちにあなたはどう関わりますか?

 

子どもと読めない文字を一緒に眺めながら、

子どもの耳へ自分の口からその音を届けるかもしれません。

確かに大切な関わり方だと思います。

 

・・・・字の読み方を知らない子なんだね・・・・

そう思ってしまえば、ならば私たちは教えたくなります。

何を教えるのか?

読み方でしょう。

 

しかしながら、なぜ私たちは字が読めるのでしょうか?

 

大人の口から出た音声を模倣することができたり、

字の形をそれぞれ見分けることができたり、

音の情報と視覚の情報を合成することができたり、

それらを覚えることができるから・・・

でしょうか?

 

 

人はなぜ話したり、書いたりすることができるのでしょうか?

なぜ、話したり、書いたりすることができない子どもたち・大人たちがいるのでしょうか?

 

指もあるのに、口もあるのに、脳にも傷はないのに、

どうして言葉や文字をうまく使えないんだろう?

 

なぜだと思いますか?

 

原因は子どもによってそれぞれ違うとは思いますが、

人が言葉や文字を操れる理由は『芸術的な力』が大きく関係しているのではないでしょうか。

 

私たちは話すことだけでなく、歌うことができます。

私たちは文字を書くことだけでなく、描画や造形ができます。

 

 

考えたり、伝えるために私たちは言葉や文字を使うのでしょう。

でも、その前に

私たちは命あるものとして生きることを楽しむために声を使ったり、手足を使うのでしょう。

 

歌ったり、描いたり、作ったり、

そんな楽しさを満喫してこそ、

歌うために必要な声という道具、

描くために必要な手という道具で、

さらにもう一段階上にある意味を所持した『語』という音や、『字』という形に気づきはじめるのでしょう。

 

 

輝くものに出会うこと、

美しい音に出会うこと、

そんな美術で音楽的、文学的な力が

私たち人間の特異的な学習能力を支えているのだと考えています。

 

変えてみてはどうでしょうか?

『学習』ではなく、

『楽習』に。

 

 

一つの答えを見つける勉強よりも、

たくさんの答えを見つける勉強のほうが、

大人になって役立つことが多いはずさ。

 

 

思い通りにいかないと感じている今だとしたら

答えが一つだと思いこんでいるのかもしれないね。

 

 

言葉がでない

字が読めない

歩けないし

走れない。

でも、それが不幸とは限らない。

 

君自身を楽しもう。

光輝く人だから。

 

 

 

 

I used to rule the world
Seas would rise when I gave the word
Now in the morning I sleep alone
Sweep the streets I used to own

Coldplay – Viva La Vida