なんてったって解剖学。

解剖学という言葉を聞いてあなたはどう思いますか?
どんなイメージを持っていますか?
難しい、ややこしい、なんだか怖い、
そのようなイメージでしょうか。
あまり近づきたいと思えるもの(科学)ではないのでしょうか?
それとも、近づきたいけれど、難しくて、なかなか手でつかみきれないものでしょうか?
それでも、
解剖学に『近づきたい』と思える気持ちがあるのであれば、
それは障がい児者の支援者としていくつか存在する関門を一つくぐれているのだと思います。
いや、
障がい児者の支援という枠組みだけではなくて、
解剖学を学ぶことによって、
自分の『人』についての解釈や信念が深まったり、幅が広がったりすることでしょうし、
自分自身のことや、自分と関係する他人の違いをも
落ち着いて受け止めることが少しずつ出来るようになっていくのではないでしょうか。
促音をうまく言えない子どもがいます。
『切符』を『きぷ』と言ってしまったり、
『学校』が『がこー』となるる子どもです。
このような子どもにどのように促音便である『っ』が抜けていることを説明してあげれば良いでしょうか?
音声学という科学もあります。
音声学を用いれば、症状を表記することができます。
どのように表記するのかというと、
/kippu/ ➡︎ /kipu/ というような表し方です。
でもこれはあくまでも音声学です。
それでは『っ』の正体はなんでしょうか?
/p/が抜けているということでしょうか?
それでは『学校』はどうですか?
/g/が抜けているということになるますよね。
それでは、それでは、『っ』の正体は何なのでしょう?
/p/なのですか? /g/なのですか?
なんだかおかしいですよね。
どうして平仮名で一つの文字が音声記号で書いたらいろんな文字になるのか?
それを説明する人が『それが決まりだから』と言ってしまえば、
あなたは無理矢理に、そう思わないといけないと感じるのかもしれません。
理解するための足の動きを止めてしまうのかもしれません。
自分と異なる子どもを目の前にして、
その子のことを理解する手前で立ち止まってしまうのです。
どうでしょうか?
『っ』の正体は /p/なのですか? /g/なのですか?
答えは/ʔ/です。
声門閉鎖音 (glottal stop)といいます。
人の喉頭にある左右の声帯を内転することによって、声門を閉じるのです。
息を吐きながらこの運動を行えば、吐く息が止まります。
/a/を発声しながら、この声門閉鎖を行えば、発声が止まります。
この声帯の運動を一瞬だけ行ってすばやくまた /a/を発声すると、
『あっあ』になります。
それでは、これを音声記号で表記たらどうなりますか?
/aaa/になのでしょうか?
こう書いてしまうと、『あああ』とも解読されてしまいますよね。
そうなんです。
だから、音声学での促音の表し方は、他の視点から考えると完全ではないんです。
他の視点とはなんでしょうか?
それが、
『解剖学』です。
解剖学的な視点を含めて、音声運動(構音)を表記すると、
/kippu/じゃなくて、 /kiʔpu/
/gakkoː/じゃなくて、/gaʔkoː/
こうなるんです。
声帯? 声門? 内転?
いろんな言葉が出てきますよね。
これを説明し始めると、止まらなくなりますので、今回はこのへんで。。。
要するに、『っ』という音は閉鎖音という音ですが、音(波形)があるのかというと、
実はないので、
音かというと音ではなくて、エフェクト(効果とか影響)であって、
子どもにとっては 解剖学的な器官である『声帯』を流暢に運動させながら発声するという機能の獲得といえるのかもしれません。
声帯の運動が流暢でなければ、『っ』が抜けてしまいますし、
そのような問題は音声に限らず、
『運動』の弱さですので、紐を結んだり、お箸を持つ手先の運動の弱さにも共通して認められる症状の場合もあります。
そうなってくると、字が読めない、正しく発音できないという問題は知的な問題だけではなくて、
運動発達の影響も考えて、子どもをみていく必要があるでしょう。
これができないから、これを練習する
そういった繰り返しの学習が決して悪いわけでもなく、効果のある大切な取り組みですが、
これができない理由を、解剖学や生理学的な知識から考えてみる
といった支援者にとって『考える』という行動があれば、
ただ、できないその子が『がんばらないとだめなんだ!』と自分を追いやる気持ちになるだけではなくて、
解剖学的・生理学的な要素を取り入れたレッスンを行うことで、
自分が本当につまずいているところを見つけて、
頑張る理由を根性以外にも手にできるのだと思います。
そして、小さな一つ一つの『できた!』の積み重ねが、
その子にとっての『根性』を育てていくのだと思います。
だた、優しいだけの支援者ではなくて、
ただ、厳しいだけの支援者でもなくて、
誰にとっても
正しい支援者になっていけるように。
勉強をしなければならない、という気持ちだけではなくて、
この世の中に、
勉強するべきことを調べて残して下さった先人の科学者に感謝です。
『学問のすすめ』
福沢諭吉
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。
されば天より人を生ずるには、萬人 皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、
萬物の霊たる身と心の働を以て天地の間にあるよろずの物を資り、以て衣食住の用を達し、
自由自在、互いに人の妨をなさずして各安樂にこの世を渡らしめ給ふの趣意なり。
されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、
貧しきもあり、 富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、
其有様雲と泥の相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。
實語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。
されば賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來るものなり。
又世の中にむづかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
其むづかしき仕事をする 者を身分重き人と名づけ、
やすき仕事をする者を身分輕き人と云ふ。
都て心を用ひ心配する仕事はむづかしくして、手足を用る力役はやすし。